夜桜の下へ——独り、春宵の誘いに従って
はじまりの一杯
冷たい夜気が頬をなでる。凛は提灯の橙色に縁取られた石畳を踏みしめながら、ゆっくりと足を止めた。
見上げれば、夜桜がそこにある。満開の枝が暗空に広がり、薄紅の花びらが光の中でひらりひらりと舞い落ちる。

凛はレジャーシートに静かに腰を下ろし、お猪口を唇に近づけた。冷えた酒の香りが鼻をくすぐり、喉をなめらかに通り抜けていく。
——今夜だけは、ひとりでいい。
誰に話しかけるでもなく、ただ桜と夜と、透き通った酒だけが友だった。淡いピンクの着物の袖を風にそっとさらわせながら、凛は小さく微笑んだ。
上気——桜色に染まった頬
花びらが髪に宿る刻
二杯目を飲み干したあたりから、体の芯がじわりと温かくなってきた。気づけば頬が桜と同じ色に染まっている。
花びらがひとひら、凛の黒髪に舞い降りた。払いのけるのも惜しくて、そのままにしておく。

着物の肩がずり落ちかけているのに、凛は気にしなかった。むしろ夜風が素肌をなでていくのが、どこか心地よかった。
ふと、誰かの視線を感じるように目線をあげる。だが、そこにいるのは桜だけ。
「……お酒のせいかな」
ひとりごちた声は夜に溶けて消えた。唇の端に浮かぶ微笑みは、少しだけ甘く、少しだけ艶やかだった。
陶酔——春宵の深みへ
桜の幹と、白い肌
夜が深くなるにつれて、凛の体から力が抜けていった。桜の太い幹に背をもたせかけ、ゆっくりと目を細める。
月明かりが冷たく降り注ぎ、提灯の橙がそこに重なる。その狭間で凛の頬は熱く上気し、白い肌には散った花びらがひとひらと貼りついていた。

花びらが風に巻き上げられ、凛の周りをゆるやかに旋回する。半分閉じた瞼の向こうで、桜の光がにじんで見えた。
「桜って……ずるい」
こんなに美しく咲いて、こんなに潔く散っていく。そのせいで人は毎年、こうして夜に引き寄せられてしまう。
凛は静かに息を吐いた。着物の肩はとうにはだけ、春風だけが肌をそっと包んでいる。酔いの熱と夜気の冷たさが混じり合い、それがたまらなく心地よかった。
春宵、終わらないで
どれほど時間が経ったのだろう。気づけば提灯の明かりがひとつ消え、また桜の花びらが舞い降りてくる。
凛はゆっくりと目を開け、夜空を仰いだ。満開の桜は変わらずそこにあって、まるで彼女だけのために咲いているようだった。
「来年も……来ようかな」
誰に言うでもなく、凛は静かにそう呟いた。春の宵はまだ続いている。桜も、酔いも、この甘い開放感も——全部ひっくるめて、もう少しだけ、この夜に溺れていたかった。